【CDアルバム】
1993年5月「マドリッドからの招待状」1998年1月「この季節が終わる頃には」2004年2月「アダージョ」2009年5月「このかけがえのないひと時を」2013年11月「この思いを」
写真を貼り忘れたのではありません・・・ これ、今日の青空なんです!
朝は雲一つ無い快晴。天高く、伊藤肥ゆる・・・いえいえ、皆肥ゆる秋ですね~
気分向上し(…単純…)、オフィスへ行く前に、かねてより行きたかった日枝神社へ参拝しました。
かわいい着物の子供たちが、少しオスマシして
ポーズをとってました。
伊藤も負けずに。
厳粛にお祈りを。
(まさかこれだけで、アレもコレも、コレもアレも、み~んな叶えてもらおうなんて・・・
(^^;)・・・思ってます)
そして社務所に立ち寄ると、「平成二十四年十月 いのちの言葉」という栞をいただきました。
なんと!そこには
「天も誠にて天たり
地も誠にて地なり」
と・・・。
驚きました。偶然も偶然、私の名前が・・・
信心深い伊藤は、暫し神と向かい合い、しみじみと感慨に耽ったのでした。
私は出雲の国の出身なのですが、今月、私の出身地は
「神無月」ではなく、「神在月(かみありづき)」なんです。
神様たちが皆、出雲の国に集まられ、会議をされるからだそうです。
今は出身地を遠く離れているのですが、小さい頃からそう聞いて育ってきたからなのでしょう、この10月は常に「護られている」という意識があるんです。
不思議ですね~
そして・・・必ずいいことが起きるんです!
オフィスに到着すると、ああ・・花壇の花が美しく植え替えられていました!
素晴らしい!感謝です (^ 0 ^)/
秋きぬと 目にはさやかに見えねども・・・
皆さんは何に秋の到来を感じられますか?
私は、キンモクセイの香りです。ようやく香ってきましたね。厳しい残暑のせいだったのでしょうか、今年は随分遅かったように思います。
大学の4年間、続いて、銀行に入行して最初の支店勤務が京都だったので、幸運にも計8年半、京の都に住むことが出来ました。
送り火も終え、盆地ゆえの酷暑を乗り越えた或る秋の日、朝窓を開けると、ぷわ~っと部屋いっぱいに広がる金木犀の香り・・・
いにしえの都の金木犀は、きっとこの千数百年、特別なパワーを持って生きてきたのでしょう。香りが殊の外強いのです。京都の街全体に、あまねく漂うこの心地よい甘さ・・・
得も言われぬ素晴らしさがありました。
実は先週後半から、この花をブログに載せたいと思い、香りを辿って金木犀を探したのですが、途中で違う香りに惹かれて美味しい店に入ったり(・・・(^^;))
今日さきほど、ランチの後、オフィスの近くの麻布小学校の前を通ったら、格別な香りの強さ!
ここは勇気を出して“行動力の伊藤”、ムーヴィング!。受付の方に「実は金木犀の…」とお話しし始めた時、ちょうど校長先生が通りかかられ、「ああ、ありますよ。」と!
なんと校長先生に自らご案内いただき、併設の幼稚園の園庭へ。
おお~!こんなにもたくさんのキンモクセイ!しかも爽やかな陽射しの中、皆満面の笑顔!!
それがこの写真です。校長先生、有難うございました!
では冒頭の古今和歌集の一句、「伊藤流」下の句を。
秋きぬと 目にはさやかに見えねども
金木犀の笑みし香りよ
私の歌創りは、浮かんでくるものを書きとめていく形です。
そのスタイルは、初めて歌が生まれた小学生の頃から全く変わりません。
それで作曲家と言えるのか、と言われると、仰る通りですねぇ…(^^;;)と答えるしかないのですが、湧き上がってくる歌詞とメロディが繋がっていき、ひとつの歌が出来ていく過程は、私自身にとっても感動のひと時です。
いつも思うのですが、特に立ち上がった姿勢の、頭のちょっと上あたりに、歌が流れているのではないかと・・・。問題はそれに気付けるかどうか。気づいたら、きっとそれを“ひらめき”と感じるのでしょう。
(これは内緒ですが、湧き上がるのは朝起きてだいたい1時間半~2時間くらいの時が多いです。内緒ですよ!)
おそらく、既に出来上がった歌のフルコーラスが流れていて、要はそれをどこまでキャッチできるか、だと思うのです。
その時に、すぐその場で書き留められる体制にあるかどうかも、とても大きなポイントなんです。
銀行時代は、だいたい通勤時間の電車の中。浮かんで、降りて、書き留めて。それから仕事にスイッチを切り替え(ざるをえなく)て。
そしてその夜かまた別の日、そのメモを眺めて続けるのですが、その時に再び当初のテンションに持っていけるかというと、これはなかなか難しいのです。
す~っと、ものの数分で出来上がる歌もあれば、1年2年経っても次が出てこないものもあり、後者の切れ端はもうすさまじいほど大量にあります。
でも、その“立ち止まったまま”の未完成の歌たちを、私は強引には創りません。大好きな歌だからこそ。
目下、迫りくるコンサートのために、その内の何曲かを選び、いつも眺めています。
あえて完成しようと思えばちゃちゃっと作ってしまえるのですが、それはしません。
だから、場所変えたり(特に“気”の満ちた場所がいいですね~)、想像力をかきたててあげたり(美術館へ行ったり、舞台を観たり)することが大事なんですよね・・・
静かにこぼれ落ちてくる言葉たちを拾い集めて、アルペジオに乗せて・・・
たとえば故郷・松江の私の実家の広大な庭(…ウソです ; ; )からの、何の障害もなく見渡せる青空はもちろんですが、こうしてビルとビルとに囲まれ、切り取られた都会の青空も、また別の圧倒的な素晴らしさがありますよね。
それは、我々が既に「空は無限に広がっている空間」であることを知っているからでしょう。
天体望遠鏡で覗く宇宙もそうかもしれませんね。円形に切り取られた天体だけれども、我々は無限に広がっている空間の一部であることを知っている・・・
知っている・・・??
いやいや、よく考えるとそれは、そう教えられたことによって知識がインプットされてるだけなのですよね。
空の、それに続く宇宙の、限りなく広がってる空間を、その果てしなさを、人類は誰一人自分の眼で確かめてはいないのですから。
言わば“見果てぬ夢”のようなものでしょうか。
まだ見てはいない、摘み取ってはいないけれど、きっとある、確かにある。
宇宙のように、難しい理論上の必然、という訳ではないけれど、何よりも「心」が、「魂」が、実現の必然を感じている・・・
夢に突き動かされいる・・・
だから、夢と向き合い、夢に向かって進めるんですね。
切り取られた風景の向こうには、輝ける広がりが、あなたの夢の実現があるのです!
よし!今日のランチは奮発して、Suji’sの「ステキなステーキ」にしよっと!(…すみません、全く関係ないですよね(^ ^;)>)
これはこの春にいただいた、8センチほどのペーパーウェイトなのですが、実に美しく、気品にあふれ、崇高で、今私のお気に入りのひとつです。
中に本物のミニバラが入っているのですが、こんなに美しい形で納まったものは、そうそう無いのではないかと思います。
素晴らしい!有難うございました。
「 夢の扉あけて 自由に羽ばたいて
輝く真っ赤な薔薇を 摘み取るのは君の destiny 」
韓国のポップスユニット・MtoMに書いた「夢の扉あけて」の歌詞のラストです。
薔薇の英語名の由来は、ギリシャ語の「赤」だと聞きました。
赤い薔薇の花言葉は「愛情」や「情熱」なのですが、私には、太陽に似た“別世界に咲く高みの輝き”、もっと言うと“夢を勝ち獲った者にこそ相応しい輝き”というものを強く感じます。
それだけ美しい高貴な花だと思うのです。それは、或いは「叶えたい夢」なのかもしれません。
寧ろ、そうやすやすと手に入るものであってはいけないのではないか、とさえ思えるような…。
コンサートで、いつもたくさんのお花をいただきます。
先週の土曜日、某教会で行ったコンサートでも、大きな美しい薔薇の花束をいただき、今オフィスの、私の目の前で咲いています。
「夢」が目の前にあるような、そんなうれしさを与えてくれるんです。
薔薇・・・いつも私を、こう言って叱咤し、鼓舞してくれる花。
「そんな小さなことにこだわらないで。
もっと大きく、もっと大きく、もっと大きく!」
(・・・それが食欲に直結し、体重がチュージツに増えてゆく伊藤なのでした (_ _; ) あぁ…〇〇の秋はツラい。。。 )
「鈍感さ」は、時に致命的な要因となって痛恨の場面を演出し、時に不可欠な要素として我が身を救う…
と、私はそう思っています。
鈍感であったがために、気が付かず、大きなチャンスを逃したり、大切な人を救ってあげれなかったり…。
逆に、自分が厳しい状況に陥り、滅入ってしまった時、鈍感であったがゆえに完璧に落ち込まず、窮地を脱出した、とか…。
この「鈍感さ」を意識的に使い分けられたら、きっと最高の人生になるのでしょうが、えてして逆に出て後悔したこと、みなさんもきっと何回かおありではないでしょうか。
これが外部要因ではなく、自らの中におわします「能力?」なのですから厄介ですよね。
あってはならないものであり、なくてはならないもの・・・
難しい要素、「鈍感さ」。
雲丹や蟹、鯛や鮃の舞い踊り・・・
昨夜はスポンサー企業の社内懇親会に出席。おお!美味なものばかり・・・
しかもこの器、陶芸家の塚本治彦先生の、あの大作に!!びっしりとひしめき合うお寿司たち。
またこちらは、数種類の雲丹に、貝柱の粕漬け、海老の味噌漬け・・・
酒が進まない、ワケがない(^^;)ですよね。
地元以外ではとても入手できない美酒・名酒ばかり・・・
これまた、もったいなくも塚本治彦先生の猪口で、じっくりと味わいつつ。
時にぐいっ!と、 時にちびちび・・・と。
ええね~。ほんまやね~。(と、時に関西人になったりしつつ)
こうして、初秋の宵は美しく更けてゆくのでした。
この旨さ、 この笑い、 あの言葉、 あの笑顔 ・・・
これこそ明日への活力!
…と、言い訳しつつ飲み進める伊藤なのでした(^0^;)
感謝です!
いよいよ“動く時”だな、と。
こう思うだけで、ワクワクとうれしくなってくるんですよね。くるぞ~、っと(笑)
日々バタバタと、何かしら追い追われているので、あたかも充実しているようについ勘違いしてしまうのですが、これは“動”ではないのです。
全体を俯瞰し、大所高所に立っての、“主体的”な“攻めの動”を、と。
“動”とは即ち“静”なのかもしれませんね。
全てのことには「時」がある、と思っています。もちろん、“動”にも「時」があるのです。
動いてる時、動けない時、そして、動く時。機を見て、敏なり。
身を転じ、音楽だけに浸り、もうすぐ半年。自分のポジションが、漸く見えてきました。
伊藤、自慢じゃないですが、スロー・スターターなんです(^^;)
先日スポンサーとそういう話をしている時、副社長が仰った言葉。
「現状維持は衰退の始まり」
いい流れでも流されてはいけないのです。いい流れであるからこその“動”なのです。或いはひとつの予感なのかもしれません。
大好きな小説「ドン・キホーテ」をテーマにしたミュージカル「ラ・マンチャの男」の中で、作者・セルバンテスが、このミュージカルの命題でもあるセリフを語ります。
「一番憎むべきは、あるがままの人生に折り合いをつけて、
あるべき姿のために戦わないことだ」
さあ、高らかな笑い声とともに、いざ出陣! (^0^ )/
6月末から開催している「マウリッツハイス美術館展」、なんと最終日の今週の月曜(祝)にやっと観てきました!
最終日は9時半の開館が1時間早まるらしい…との情報を得て、朝8時に東京都美術館へ。やったー!まだ50人ほどの列。そして、確かに8時半過ぎに開場!
ルーベンス、レンブラント、等々見ごたえのある作品ばかりでしたが、なんといってもこのフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」ですよね~
結果、やっぱり素晴らしい!!完璧に魅了されました。
生きてるうちにもう一度見れないかもしれないと思うと、余計に。
一番前の「立ち止まり隊けど立ち止まれない隊」で8回繰り返し「移動式」流れ鑑賞。その後、少し後ろからの熱心なかたまり「立ち止まって見隊」に入り、徐々に前に進み、ついに一番前で、(早く交代しろ!という後ろからの視線に耐えつつ;)約3分くらい鑑賞しました。
ああ、なんと魅力的な絵・・・・・・・・
「真珠の耳飾りの少女」というよりも、「青いターバンの少女」でしょう…と勝手に思ってましたが、近くで観ると確かに、この耳飾りの真珠、大粒ですね~!
この青いターバン、ウルトラ・マリンブルーという、ラピスラズリという石を砕いた当時とても高価な顔料が、惜しげもなく使われているとのこと。この青と、背景の黒が、なんともいえないエキゾチックさを醸し出し、ミステリアスさを深めているのでしょうね。
「立ち止まり隊けど立ち止まれない隊」で、絵の左から右へ流されつつ、繰り返し鑑賞した時・・・驚きました!!
この少女の瞳、最初に視界に入る左位置から、本体の前を通って視界の消える右位置まで、ずっ~~~っと、見つめているんです!!(まさか私だけを!??(^^;)と思うくらい)
凄い・・・
そして、観終わって美術館を背にした時に、はっ!と気がついたんです。
「絵を観に来た」と思っていたのですが、違ったんですね。
私は、「この少女に逢いに来た」んだ・・・と。
フェルメールが明かさなかったモデルの神秘、ここにあり、でしょうか。
帰りにハシゴして、西洋美術館の「真珠の首飾りの少女」も観るつもりで来たのですが、とてもとても。この絵の圧倒的な余韻にノックアウトされ、やめました。
そして伊藤は密かに決めたのでした。
オランダの、この「マウリッツハイスの少女」に、もう一度逢いに行こう!と。
ちなみに、出口の前に掲げられた2枚。
上が件の絵画。下は、今を時めく武井咲ちゃんが扮した写真です。
さてさて、やはりこれはヤボというものでしょう・・・
もしもこの世から活字がなくなったら、きっと私は間違いなく気が狂うのではないかと思います。
特に忙しさが重なってきたりすると、ひたすら活字を“渇望”します。喉が乾ききった時、無性にビールが飲みたくなるように(…もっといい例えがあるでしょ…)
ただ、よく「年間ウン十冊読んでます」という凄い方たちがいらっしゃいますが、私は残念ながらそういう読み方は出来ません。特に、流し読みが出来ないのです。
寧ろ、同じページを何度も繰り返し読んだり、立ち止まったり、時には書き込んだりしながら、じっくり読んでいくタイプです。
たとえサスペンスで、次の展開をどんなに早く読みたくても、ストーリーだけ追って斜めに読み進めるなんて、私には不可能です。言葉のディテールをしっかり読みこなし、充分理解してからしかページをめくれません。
だからこそ、なのかもしれませんが、少しこだわりがあって、人前で堂々と「私は本を読んでます」っていうのが、あまり好きではないのです。(へんな性格ですね~(^^;)
)
本たるもの、自分ひとりの時間に、まるで密かな楽しみの如く読み耽るもの。それが「伊藤流・正しい(…おかしな?…)本の読み方」なんです。読んでるっていう姿を、あまり人に見せたくないのかもしれません。(ヘンなおじさ~ん(― ―‘))
前にFMのパーソナリティをやってる時に一度特集したのですが、最近電車内等で電子パッドで書籍ソフトを読んでる方も時々見かけますね。
これも私はダメなんです。断然アナログ派で、本たるもの、手に持って、いわば本の匂いとかも感じつつ、指で一枚(の触感を確かめつつ)めくるものでなくてはならないと思っています。
新書は新書の匂いがし、古書は古書の匂い(臭い??)がし、紙質もそれぞれ微妙に異なるし、それを五感のどこかで無意識に捉えながら、読み進めてゆく・・・
休みの日の早朝、ふと早~く目が覚めたりしたら、ヤッター!という感じで、ワクワクと横の本を開いて読みます。ずっと読んでいられる!という幸福感を満喫できる時間・・・
「至福」のひと時です。
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